昭和43年4月19日 朝の御理解
                       中村良一

御理解 第67節
「何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。」



 何事もくぎづけではない、信心はめいめい、いわゆる、各自にしておらねば長う続かぬ。この御理解から、どういう様な風に感じ、受けられるだろうか。人に誘われての信心は、付け焼刃の信心じゃと仰る。付け焼刃の信心では、取れやすい。どうぞ、その身から、打ち込んだ信心をしてくれとこう仰る。今、こんな風で、朝参りは、大変、一生懸命されておられるから、あなたも一生懸命、あなたも一つ、朝参りをしなさいと言われてね。するような信心では、それは、ちょうど、付け焼刃の様なものだ。ですから、それは取れやすいのだ。やはり、自分自身が、その気になり、自分自身が、その身から、打ち込んだ信心をしてくれと。信心は、一にも押し、二にも押し、三にも押しと言われております。これで良いという事はない。いわゆる、そこんところが、自己を肯定しないでの生き方ですね。もうこれでええ、もう自分な、これ以上出来ない。そういう風に、自分を肯定したんではね。信心は進まない。もちろん、否定もいけない。肯定しないでの生き方、否定しないでの生き方。そこに、お道の信心の真髄があるのです。いわゆる、これで済んだとは思いませんというのです。何時もそれなんです。
ところが、この六十七節の御理解を頂きますと、何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬと。何かこう、楽な感じが受けられますね。この中から。パーっとこう、桜の花のような信心をしても、散ってしまう、恐れがある。はぁもう、火のつく様にして、信心するかと思うと、後は、すっとこう、冷めやすい。熱しやすく冷めやすいという人がある。そういう信心であってはならん。いわゆるその、長う続くためにも、長う続かんと仰る。長う続くためにも、やはり、梅の花の信心が必要である。それも、自分のベースというか、それを崩さない。それでいて、何時も、その自分のベースが崩されている。自分のあり方というものは、やはり、崩さない。それでいて、何時も崩している。また、崩れて行かなければ駄目です。そこんところが、信心は、くぎづけではないと仰る。だから、そこんところをですね。信心が、落ちるという意味じゃないのですよ。ここんところをです、一生懸命の時もありゃ、一生懸命じゃなくても良いというじのじゃない。その、一生懸命といった様なものはね。そんなにこう、いざ走るぐらいにする様にですね。もう、息せき切ってからする。あれが、一生けん命じゃないです。一生懸命というものは、楽なんです。本当に、そうですよ。一生懸命で無いから、楽じゃないのです。信心も、一生懸命になってごらんなさい。朝参りが楽しゅうなるでしょうが。それが、付け焼刃的なものであるから、朝参りは、とても、私どんじゃ出来ん。やっぱ、眠かという事になってくるのです。一生懸命になったら、もう、そんな事は楽なんです。しかも、くぎ付けではない。どういう事かと言うと、やはり、信心はもう、登り続けるより他にない。下るという事はない。それをね、ここんところをですね。ようくその、間違える人があるんです。くぎづけではないから、登るときまでは、下っても良かといった様な考え方をする人があるんです。くぎ付けではないという事は、何時も、今さっき申します様に、自己を肯定しない生き方でありさえすればです。何時も、これで済んだとは思いません。これが、私の、一生懸命でございます、と、いうてもです。本当に、もちっと、一生懸命出せれるやら分からんです。ね
秋永先生が、最近、見えておられますよ。寒修行以来、この方、まぁ、言うなら、一家を上げてですけれども。実際に続いておるのは、秋永先生達夫婦です。とても、福岡から、朝参りてんなんてん、それこそ、秋永先生の過去に於いてはですね、夢にも思わなかった事だろうと、こう思うのです。また、それが、不可能なことだと思うとったかも知れません。嫌また、そげん、信心ちゃ、そげんしたもなんじゃないと思うとったかも知れません。昨日、秋永先生が、どう言うとりましたか。初めの間は、なるほど辛かった。けれども、それが、この頃はもう、自分の生活の一部になった。それがもう、当たり前の事として、おかげを頂く様になれた。もう、これは、私の中から、摘み取ることは出来なくなった。もちろん、今まで、十八年間も信心してきたけれども、今までかって、味おうてきた事のない、信心の喜びに、または、形の上に於いても、おかげの上にも変わってきた。これが釘付けであったら、どういう事になりましょうか。くぎ付けで無いから、そのように、信心が、あり方が変わってくるんです。さもなきゃ、何か、自分に、特別のお願い事でばしあるとじゃなきゃ出来んもんのごと思うておった。そうじゃない。願いがあるけんじゃない。頼まんならんけんじゃない。そこに、私はね、くぎ付けではないという信心を。だからこの、くぎ付けではないという事はね。今の、こうやって言われておりますよね、教団で。えー、自己を肯定しないでの生き方。また、否定でもないと言われておる。あの、非常にこれは、哲学的なことわざと言われております。私共も分からなかった、初めの間は。けども、良く良く、御理解を頂いてみると、信心はくぎ付けではないという事なんです。信心はくぎ付けではない。同じとこへ、きちっとこう、止められとるもんじゃない。何時も動いていなければならない。しかもその、動いておるけれどもです、ね。めいめいに 信心をしておらなければ長う続かんといった様なところがですね。やっぱり、登ったり、下ったりもあるという様な風な感じで、受けたんでは、いわば、一にも押し、二にも押し、三にも押しという、信心になってこないのです。これは、まぁだ信心が足りぬからだと、一段と信心を進めて行けば、そこからおかげが受けられると仰る。各自、めいめいとこう仰るのは、人から誘われての、しょうことなしの信心じゃ付け焼刃の信心じゃ。それでは取れやすい。どうぞ、その身から打ち込んだ信心をしてくれいとこう仰る。そういう、後先の御理解から、感じてです。この御理解は、そういう生易しいものではないという事を、私は感じます。お互いが、信心辛抱しぬかせて貰うて、辛抱の徳を受けさせてもらって、それには、一生懸命にならなきゃいけん。一生懸命という事は、ほんなら、マラソン競争するように、走り比べをするように、息せき切って走る。そういう風に、難しいものじゃない。一生懸命になったら、実は、楽なんだ。一生懸命にならないから、苦しいんだ。皆さんは、この辺のところを、分かられると有難い。
今朝、私はあの、御神前に出らせて頂いて、お願いして貰いよったら、映画俳優に、加山雄三と言う人がおるでしょう。大体、私は、ああいうその、若い俳優、昔の俳優なら知ってますけど、知らんのですけれども、はぁ、こりゃ、テレビでよく見る、何とか言いよったよ、この俳優はと、私は思うんです。見せて頂いてね。ああ、そうそう、こりゃほんに、加山雄三ち言いよったと思うたんです。確かに、こういう風に書いてある。加山雄三。そして、今朝の御理解を頂いております。そして、只今、教典を開かせて頂きましたら、まぁ、六十七節の、これとは、ちょっと、縁のないような感じですけれども。良く良く頂きよりますと、縁が無いどころじゃない。密接な関係がある事を感じさせて頂いた。何事も、くぎ付けではない。信心は、銘々にしておらねば、長う続かんと。ね。加山というのは、ここでは、信心も山登りも同じ事と仰る。山登りという、山登りという事は、修行という事。かと言うのは 加わるという事。いわば、山に山が重なるというかね。いうならば、修行に修行が重なるという事。まぁ、これは、ほんなら、難儀という面から言うなら、踏んだり蹴ったりと言われる事。踏まれた上に、また蹴られておる。けども、これを信心で頂くと、加山になるのである。修行に修行が重なっておる。いわば、九十九である。苦に苦が重なるという事けれども、ここを辛抱しぬかせて頂いていかなければ、百というおかげになってこないのだ。そういう時ほどが有難いのだ。苦に苦が重なるほど、踏んだり蹴ったりという時ほどに、ここんところを元気な心で受けさせて頂くとです。百になるけれども、この九十九。もう、これほど信心するのに、また、こんな難儀なというたり、また、九十八の方へ、七の方へ、ちゃんと、すとっと下へと落としてしまう。信心のおかげを頂くコツは、ここです。苦に苦が重なる時ほど、はぁ、もういよいよ、おかげ間近しと、心が躍る様なものを頂かにゃいかん。確かに、おかげは間近い時です。雄三というのは、私は、雄の中から、信心は元気な心と仰る。元気な心で信心せよと。雄と言うのは、そういう意味だと思う。勇み立つことだと思う。雄三の三というのは、一にも押し、二にも押し、三にも押しの三だという風に、私は感じた。加山雄三か。
昨日、お月次祭の後に、菊栄会の連中が、昨日は、全員揃うておった。菊栄会、十人ですね。それで、二十日が、菊栄会の例会。春秋の大祭が終わりますと、その二十日の菊栄会を、まぁいうなら、何と申しましょうか。私を通して還元するとでも申しましょうかね。いうなら、私の慰労を、御大祭でお疲れになっておろうから、ゆっくり、温泉にでもお供して、ゆっくり、それこそ、もう十人のものが、もう手とり足とりして、その何時も、私をその、大事にして下さるんです、一晩泊まりで、どっか、九州、あっちこっち。もう、行かないとこはないぐらいに、温泉廻りを致しました、一晩泊まりで。それで、このたびは、まぁ昨日、どこにしようかという様な協議が、まぁあった訳でございます。まぁこれは、行く場所が、必ず、あっちこっち、窯元めぐりを、私が好きですから、必ずその、どっか、窯元をですね、有名な窯元を巡って、そして、一日を、そういう。そして宿屋へ行って、一晩、ゆっくり、まぁ極楽させて頂いて、その上それも本当に、私が好きだもんですから、芸者さんを呼んでその、まぁ、どんちゃん騒ぎとまではいかんにしてもです。そういうその、楽しみをさせて下さった、今まで。ところがです、信心はくぎ付けではない。何時も同じという事じゃないという事。それで、私は、昨日は、最近はね、私はもう、とても、どんなに考えてもね。四時の御祈念が始ったらですね、もう、四時の御祈念だけは外されん。だから、泊まるという訳にはいけん。もう忍びない。もうそれが、楽しゅうやら、有難いやら、もうとにかく、温泉でその、サービスども受けるげなこっじゃない。だから、みんなが、思い立つなら、どうでもその、一晩泊まりじゃなくて、まぁ一日旅行です。そしたら、あんまりお疲れになりますでしょうとこう言う。そんなら、どっか、近いとこへ言って、まぁ日田か福岡へんまでぐらい、ね。二日市あたりの温泉がある。ぐらいに、したらどうじゃろうか。それじゃせっかくじゃけん、やっぱこう、あなた達のレクレーションじゃなかもんで、結局、私を中心にだから。だから、この日だけは、親先生に還元するのだ。もう、親先生任せなんだ。だから、たとえて言うならね。まぁ、福岡あたりのデパートで、何か、美術品の展示、ああいうのが良くあってますよ。それでん、もう好きなもん同士が、十人あんた、もうエレベータに乗って、上ったり下ったりするだけでん、大抵楽しいよと私が言うんです。そして、帰りは、二日市あたりの温泉で、ひと風呂浴びて帰ってくるという様なこつなら、大して疲れもせんだろう。そういう風に、いっちょ、どうでんこうでんやってみようと言うて、昨日はまぁ、申しました事です。これは、私の信心が釘付けではないから、そのような風に変わってくる。そして、今度はもう、私が飲めんからじゃなかばってんか。あんただん、頂いても良いよ。けれども、もうあの、芸者さん読んでから賑あうちいうごつだけは、いっちょ、止めよう。ところが先生、昨日、私共がその、その話を大体、あらかじめしておいて、福岡の、あっちこっち当たったところがですね、二日市の、何とか山荘という、大変高級な温泉ホテルがあるんですよ、山の上に。もう土曜日で一杯です、どこも。ところが先生、おかげ頂いてですね、そこの貴賓室と、茶室だけが開いておった。こうもう先生、こりゃ、私が言うんですよ。だから、一日だからね、一つ、思い切り贅沢しようじゃないか。ね。例えば、一万円還元するよか、二万円還元した方が良いぞと私が言うた。還元だもん。だから、思い切り贅沢しようと私は、そう言うとったんです。
昨日、繁雄さんと高橋さんが、昼に、その事をうち合わせしておりましたから。一晩泊ると思うて、芸者どん呼ぶと思うなら、それで出来るじゃないか。ところが、その、だいたいそこに、そうして私がその、精進料理が好きですから、どこどこの何とかというお寺さんの、有名な精進料理があった。そこで昼食をさせて貰うて、そして、福岡の、何か美術展を見て、そして、帰りに、そこ寄ろうというプランが出来ておる。しかし、私も、何時もの事ながら、驚きました。貴賓室、それに、茶室が空いとるだけ、他は空いてない。ちょうど良い。もう本当に、まるきり、親先生のために用意しておって下さったようにあると言うてその、言われる訳です。そしてほんなら、この次は、さぁこの次も、どうなるやら分からんのです。くぎ付けではないのですから。ほんなら、現在の私は、ほんなら、五時の御祈念をしておった時よりも、四時の御祈念の方が楽なんです。その証拠に、私が、三十分前には出てきておる。三時半には出てきておる、ここに。五時の時には、十五分前に出るとが、やっとかっとだった。如何に、一生懸命の事が楽なかという事が分かるでしょうが、皆さん。皆さんが、きつい時には、まだ一生懸命が足りん時です。しかも、その事がもう、秋永先生じゃないけれども。もう自分の生活から、朝参りを、もう外す訳にはいけんごつなって来ておる。おそらく、私、生涯、他所へ泊まってから、くるといった様な事は、まずまず無い事になるだろう。だから、私は、御本部参拝ですらです、出来るなら、私は飛行機でお参りすると、私は言う。朝の御祈念、仕え終わっとってから、飛行機でお参りさせて頂いて、そして、帰りも飛行機で帰ってくる。そすと、夜の御祈念には、また間に合う、というくらいに、私は、ここに、いうならば、一生懸命にならせて頂いておると言う事。これは、今日の御理解を頂いておりますとですたい。如何にくぎづけではないという事が、有難い方へ進んでいくことか、登っていく事かという事が、皆さん分かるでしょう。めいめいにしとかにゃならん。信心は自由だ。だから、しても良か、せんでも良かといった様なものではなくて。私どもの信心が、何時も、自己を肯定しないでの生き方、これで済んだとは思いませんという生き方があれば、何かそこに、チャンスがあればです。人から勧められなくても、はっと気付かせて頂いて、これではならんと、一段と進められた信心が出来るのです。その中には、例えば、字の信心も手習いと同じ事と仰るように、楷書で稽古しておる人もありゃ、草書で、または行書で稽古しておる人もあるのですから、同じじゃないという事。信心も山登りも同じと仰るが。そして、向こうへ下りたら安心じゃと仰るのに。こちらから、登っておる途中の人もある。頂上を極めておる人もある。かというて、向こうの方へ下りておる人もある。それを見ると、如何にも楽なようであるけれども。手前の方へ下りてるんじゃない、向こうの方へ下りておるのだ。だから、やはり、信心は、付け焼刃では、その、めいめいでなからなければいけないという事が分かりますよね。でないと、自分の登ったところ、下から登ってくる人を待っとかにゃん。そうでしょう。信心はめいめいのもの。
何事もくぎ付けではない。信心をめいめいにしておらねば、長う続かん。私どもの信心が、一段一段高められて行く、進められていく。今まで、不可能とさえ思われておった事が可能になる。しかも、それが、有難うなる。それが楽しゅうなる。信心は、嬉しゅう、楽しゅう出来る様なおかげを頂くためにも、皆さん、一生懸命にならなければいけないという事が分かります。そこへ、もちろん、おかげが伴う、お徳が受けられる。これはもう、もちろんの事。ですからあの、一つの道楽でも同じだ。若い時から、一つの道楽がある。そ入れがね、年取ったっちゃ、同じような道楽であるならば、その人が、人物が、一つも向上しとらん証拠だと私は言うんです。ですから、もう、こちらの信心の内容というものが向上してきたらです。そういう例えば、趣味趣向といった様なものまで変わってくる筈だ。もっと高度なものに、高尚なものに。普通の事でも、やはり、いいえ私は、これが好きだから。これだけは一生止められん。私どもでも、やっぱ、そうでしたもんね、若い時に、三味線なんか稽古しましたが。三味線は、もう年とったっちゃ弾かれるけんでちいう気持ちじゃった。けれどもほんなら、今頃、三味線弾きなさいち言うたって、もう、それこそ、恥ずかしいごたる気がする、様にですね。そういうものが変わってくる。それよりか、もっと大事なものが趣味に、大事なものというか、高度なものが、高尚なものが出来て来とらなければね、人間が向上したという事は言えない。そういう事も、やはり、くぎ付けではないから、そういう風に変わっていけれるのです。これは、信心だけの事じゃないですけれども。確かに、くぎ付けではない。しかも、そういうです、くぎ付けで無いという、銘々のものでなからなければ、確かに長う続かんのです。あの人の通りせにゃならんといった様な事じゃない。目指しはある。まぁここで言うならば、まぁ、私が、ちょっとした目指しです。いや、先生のごつ真似は出来んてんなんてん言わずにです。やはりね、一遍に、それから出来る事は出来んけれども。一歩一歩、やはり、それに近づかせて頂くという願いと意欲だけは、持っておかねばならんと思うですね。どうぞ。